ニーチェ ツァラトゥストラ は かく 語り き

公開日: 02.03.2020

典拠管理 WorldCat Identities BNE : XX BNF : cbd データ GND : LCCN : n VIAF : ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界』 松岡正剛 『花鳥風月の科学』 三島由紀夫 『絹と明察』 松岡正剛 『空海の夢』 永井均 『これがニーチェだ』 ニーチェ 『ツァラトストラかく語りき』 ニーチェ木場深定 『道徳の系譜』 フリードリッヒ・ニーチェ 『ニーチェ全集』 ジル・ドゥルーズ江川隆男 『ニーチェと哲学』 フリ-ドリヒ・ヴィルヘルム・ニ-チェ 『反時代的考察』 ヨハン・ヤ-コプ・バハオ-フェン 『母権制』.

如是経 序品 登張竹風 年訳 [6]. フリードリッヒ・ニーチェ 『古典ギリシアの精神』 筑摩書房 交貨篇 夜 スーザン・ストラッサー 『欲望を生み出す社会』. ニーチェはツァラトゥストラが町にて説教を行うことを記述する。美徳を論じる偽善者、 プラトン主義 や伝統的な形而上学を論じる背面世界の論者、または身体の軽蔑者をツァラトゥストラは批判する。そしてツァラトゥストラは魂を重視するがあまりに肉体を軽蔑する論者に対して、肉体が内包する根本を明らかにしようとする。ツァラトゥストラにとって肉体そのものがひとつの大きな理性であり、精神とは肉体の道具に他ならない。さらに自我の起源、文化、社会、国家、共同体について論じた上でツァラトゥストラはさまざまな民族がそれぞれ独自の価値観と目標を掲げ、それぞれの勝利のために争ってきたことを確認する。彼らは千の目標のために戦ってきたが、人類はまだ一つの目標を持つことができていない。またキリスト教の価値観である隣人愛の精神が自分自身への逃避であると指摘する。本来あるべき態度とは隣人に対する愛ではなく、未来に出現する者への 遠人愛 であると説く。そのことによってニーチェは伝統的な価値観を否定するだけでなく超人の思想を生み出すための方向性を示している。ツァラトゥストラは弟子を得ることができたが、この第1部の最後では再び弟子たちを遠ざけて一人孤独な生活へと回帰する。.

前野隆司 小森谷浩志 天外伺朗. ボン大学 と、 ライプツィヒ大学 で、文献学者リッチェルの指導を受けたニーチェは、その能力を認められ、26歳(年)の若さで、バーゼル大学の 古典文献学 教授となった。しかし、健康上の理由から、35歳(年)で大学を退職、孤独な執筆生活に入ることとなり、持病の発作に悩まされながらも、年に発狂するまで、多くの著書を世に出した。その中でも本書は最も重要なものとされている。本書の最初のインスピレーションとなったのは、年の夏、ニーチェが エンガティン峡谷 の小村 シルス・マリア に滞在したときで、そのとき散歩中のニーチェは突然 永劫回帰 の思想の啓示を受けたのだった。その思想が熟成し『ツァラトゥストラはこう語った』という表現形式を得たのは2年後のことであった。.

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ロマン主義的ペシミズムの謳歌が最初に応用されたのは、ニーチェにおいては悲劇をめぐる考察である。著作でいえば年の『悲劇の誕生』がこの段階にあてはまる。  ニーチェは ソフォクレスの『オイディプス』 にとりくんで、なぜ悲劇が自分をここまで感動させるのかを考えた。悲劇とは(とくにギリア悲劇やシェイクスピアは)、巨大な宿命に人間の運命が圧倒され、押し潰されていく心身の痛みや悲しみを如実に描いたものである。そのような悲劇は運命に敗北した人間ばかりを描いているのではない。燦々たる陽差しを浴びる者もちゃんと描かれる。この対比があるため、悲劇には感動がある(と、ニーチェは考えた)。だから登場人物がもらす悲嘆や落胆にすら共感がおこる。これは物語が悲劇的な筋書きをもっているからではなく、そこに「生きる」という充実と失敗が如実に、必死に描かれているからなのである。  ニーチェは人間の世界には「悲劇という生の充実」があると見た。「悲しみ」と「生の充実」とは必ずしも対立していないと知ったのだ。ニーチェはその理由を考え、悲劇の構造と特質を分析し、そこにアポロン型とディオニソス型が絡まっていることを発見する。  アポロンは理性の神である。予告する。ディオニソスはバッカスのことで、酒に酔う情念の神だ。何かを解放する力をもっている。アポロンは秩序をかたちづくり、ディオニソスはそれを打ち破るエネルギーである。ニーチェは発問した。この対比の構造こそは悲劇にひそむ「生」を漲らせているのではないか。では、それはどこから出てくるのか。おそらくギリシア悲劇のもうひとつ前の時代のなかに光るソクラテス以前の原型的な知的エネルギーが湧き出てきているのではないか。ニーチェはそういうふうに問いを発したのだ。  ここで、ニーチェは第2段階に移っていく。.

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さて第3思想段階は、ディオニソス性を内包した「悦ばしき知識」をもって、何をするかということになる。  ふつうに考えると、そんな悦びに満ちた知識が会得されているのなら、真理を探究したくなる。その真理を手にしてみんなに自慢したくなる。が、ニーチェはこのことに疑問を呈した。結論から先にいえば、驚いたことに、真理は「誤謬」だと言ったのだ。そう、真理は誤謬であると言ったのだ。  この言い草はまるでパラドックスを言っているようなので(まさに半分以上はパラドックスでもあるのだが)、ちょっと説明がいる。  ヨーロッパ、とりわけキリスト教社会においては、真理とは「神の真理」のことをさしている。それ以外はない(科学も含めて)。一方、ニーチェの哲学の基本は出発点からして「生の哲学」である。すなわち「生成」(Werden)というものが大前提になっている。何が生成するかいうと、世界が生成する。世界をいきいきととらえて自成しつつあるもの、それが生成である。ニーチェにとっての真理があるとしたら、それは生成そのものなのである。生成だけなのだ。  生成はヘラクレイトスが早くに喝破したように、止まらない。流れている。成長や変化もある。人間でいえば赤児は生成そのもので、その後に変化し、分別をもつ。しかし、赤児は誕生して世界を「生」として小さな両手と輝く双眸で感じるものの、そこで真理をつかまえたわけではない。なんとなく感知するだけだ。むしろ大半は「誤謬」ばかりだと言うべきだろう。うんこを手にし、おもちゃを食べる。それをお母さんが訂正する。社会が待ったをかける。  そうだとすると、生成の原点には誤謬しかないことになる。真理はない。少なくとも原初にひそむ生成の真理(赤児の感知)を、人間は取り出すことはできない。ニーチェは『権力への意志』に、こう書いていた、「諸物の流動という究極の真理は、血肉化が不能なものだ。われわれの器官は誤謬を掴むようにできている」。ニーチェは、このような原初における取りまちがいを「根本誤謬」とよんだ。.

ニーチェの第2思想段階は、自分がいったん傾倒したロマン主義的ペシミズムを揚棄することに始まる。  揚棄というのは弁証法の用語だからぴったりはしないのだが、ここは大目に見てもらう。まあ、いまふうにいえば"脱構築"すると言ってもいいが、こういうカッコつけた言い方をしていると、ニーチェの問いに注目せずに自分の解釈ばかり説明したくなるから、やめたほうがいい。  話を戻すと、この第2段階はディオニソス的なるものの強調によっておこっている。なぜディオニソスを強調すると次の思想の段階が始まるのだろうか。  ニーチェには『悦ばしき知識』(~)という著作がある。哲学や芸術は苦悩する人間を描くことで生命の成長やその闘争力を高めるという主旨なのだが、そこでニーチェは苦悩には2種類があると見た。健康で満ち溢れた者がその力を放出できずにもてあましている苦悩と、疲れて不健康となり、自分からも逃れたがっている者の苦悩である。ロマン主義的な苦悩はおおむね後者にある。  ニーチェはこのことから、ロマン主義者が永遠や静寂や神を求めるのは、自身の苦悩や欠陥を世界の本質に由来するものとみなして(つまりは責任逃れをして)、それによって世界との逢着を錯覚するような慰みを得るためなのではないかと考えた。  この見方はぼくには肯んじられないものもあるのだが、それはべつとして、ニーチェはこの見方によってペシミズムがデカダンスに陥ることを巧みに回避した。この見方によって、健康で陽気なディオニソスのイメージと、ときに病的な意図に陥りがちな苦悩と悲劇のもつイメージとの連なりの可能性が、ペシミズムに新たな突破口を与えたのである。  これがソクラテスともバハオーフェンとも異なる「ディオニソス的ペシミズム」というものだ。.

表 話 編 歴 フリードリヒ・ニーチェ 著作 悲劇の誕生 ツァラトゥストラはこう語った 善悪の彼岸 道徳の系譜 この人を見よ. フリードリッヒ・ニーチェ 『権力への意志』上 筑摩書房  永井均 『これがニーチェだ』 講談社

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ツァラトゥストラの緒言 生田長江 年訳 [3]. 樋口克己 『図解雑学ニーチェ』 ナツメ社 フリードリッヒ・ニーチェ 『権力への意志』上 筑摩書房

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ツァラトゥストラかく語りき

それで、さて、『権力への意志』であるが、ニーチェにとっての権力とは自己保存力のことなのである。ラテン語では「コナトゥス」という。スコトゥスや スピノザ や ホッブス がよく使った。だから権力というより社会と人間が関与するすべての「力」とみたほうがわかりやすい。アメリカ的な英語用法にするのは気にいらないけれど、まあ、「パワー」といえばいいだろう。  ニーチェはこの「力」を、「力を求める衝動」と、これを抑制する教育本能や育成本能との関係でつかまえようとした。これで見当がつくように、力はその根源で爆発(解放)できないことのほうが多い。教育とか育成とかは連鎖のことである。小学校や中学校での影響は大量の連鎖思想となっている。この力は社会全体の自己保存力になっている。容易には変質するはずはない。それならそこに連続的なダイナマイトを仕掛けてみたい。下山したニーチェはまだ斧をふるっているわけだ。  このダイナマイトは大きなビルの爆破に似て、いくつも各所に仕掛けなければならなかった。なぜなら、自己保存力は成長した自己を保存したいということなのだが、近代に向かうにつれどこの国でも教育や育成は充実してくるのだから、その規模や質量はかなりがっしりしたものになっている。しかも、近現代の人間は個人主義や自我が大好きである。そのためその奥にひそむ「力」を引き出すのが難しい。それを爆破するのは一筋縄じゃない。  では仮に、爆破ができたとして、その廃墟の奥からどうしたら力の本来を引き出せるだろうか。いや、そういう本来の力は引き出せないと、ニーチェは結論づけたのだ。.

そこで第6思想段階になっていく。ここの特色は『権力への意志』の問題を問うことにある。  ニーチェの生前、『権力への意志』は著作物になってはいなかった。ノートを執っているうちに発狂した。それゆえ、『権力への意志』は妹のエリザベートらがニーチェのプランにそってのちに編集したものだ。そういう事情だったにもかかわらず、『権力への意志』は圧倒的に示唆に富む。  理由ははっきりしている。すでに何度も指摘しておいたが、ニーチェの思想には「飛び」がある。矛盾を抱えたまま飛び上がり、次のステージに移っていく。そのうち矛盾が消化されたり、昇華されることもある。そうでないまま、ニーチェ自身が自分が用意した二律背反や行き過ぎをむりやり引っ張っていくこともある。そのため長い論文をベタの文章で読んでいると、わかりにくいところが多く、かなり苛々させられる。僕は何度、苛々したことか。それが『権力への意志』にはない。  すべてがアフォリズムとして編集されているからだ。ニーチェはこの本の素材をノートに短文のかたまりでしか残せなかったのである。けれども、それがよかった。このことからニーチェの思想の特色はそもそもがアフォリズム的なものなのではないかと推察することもできる。ニーチェはベーコンやヘーゲルのような体系的な思想家ではなかったのだ。ちなみにぼくは、自分の文体を一定のものにはしないように、ずっと心がけてきた。.

レビュー 19世紀に生き、不朽の思想を遺したニーチェの主著である。哲学に特別関心のない層にも広く知れ渡っており、印象的なタイトルに興味をそそられたという人も多いだろう。本書は主人公ツァラトゥストラが「超人」や「永劫回帰」といった思想を語るという体裁をとっており、その内容は哲学思想の枠にとどまらず、文学や芸術など多方面に絶大な影響を与え続けている。 最初に断っておくが、決して読みやすい本ではない。しかし歴史に名を残す哲学書なのも間違いない。辛抱強くニーチェの思考の足跡をたどっていけば、頭がしびれるほどの読書経験になるはずだ。これまでの自分の経験や考え方が根底から覆されることも覚悟してほしい。ある意味で非常に危険な本なのである。 圧縮しすぎることで書籍の味わいをなくしてしまうのを避けるため、本要約では主に「超人」の理想が語られる第一部を取り上げた。このあと第二部、第三部と進むにつれ「永劫回帰」の思想が徐々に姿をあらわし、最終部ではさまざまな苦悩を乗り越え、圧倒的な肯定へと至る様子が描かれる。 なお本書は気鋭の哲学者による新訳である。ツァラトゥストラの言葉を理解しようとして挫折した経験のある読者も、ぜひあらためて挑戦し、世界的名著の凄みを味わっていただければ幸いだ。真に人生が変わる読書になるかもしれない。.

1- 6 23- 4 4- 2. [6].

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