レイテ 沖 海戦 栗田 艦隊

公開日: 02.03.2020

栗田中将本人はレイテ湾を目前とした反転行動の理由について、「敗軍の将は兵を語らず」といった立場で、戦後、あまり多くを語らなかった [] 。だが戦後10年経った頃に、旧知の仲であった戦史研究家・軍事評論家である 伊藤正徳 の問いに答えるかたちで、当時の心境を簡潔に語っている。しかし栗田中将は後に 児島襄 の取材で伊藤の記述に対し、彼が20年ぶりにいきなり現れノートも何もとらずに取材し書いたものだと述べ、記述に一部誤りがあることを述べている [] 。.

栗田艦隊以外に目を向けると、連合艦隊司令長官であった豊田副武は本海戦のような状況は現地指揮官が判断すべきものであり「栗田君から弁明は聞いてはおらない」旨を述べており、佐藤和正がこの言葉を擁護的文脈で自著に引用した [] [] 。その他に 福留繁 [] 、 奥宮正武 [] が擁護し、左近允と同じく尉官だった佐藤清夫などが若干の擁護をしている。佐藤清夫の場合は、当初は批判的立場のみであったが後に調べを重ねて考えを変えたことを述べている。なお、佐藤和正は『戦藻録』の解釈から宇垣纏も反転を是とする考えを前提にしていたと推量している。. なおレイテで戦う陸軍でも通信不達が発生しており、例えばレイテ島を防衛する第十六師団と大本営とはアメリカ軍が砲撃を開始した19日より通信が断絶し、23日に一時的に回復したがそれも直ぐに断絶した。26日に師団長である牧野中将より上級司令部の第三十五軍司令官 鈴木宗作 中将に電報が届いたのは8日後の11月3日になるほどであり、電報の遅延は陸軍でも発生していたことが判明している [] 。.

旗艦愛宕と高雄の被雷を確認した第一戦隊司令の宇垣中将は次席指揮官であることもあり直ちに全艦に一斉回頭を命じ当方への回避を命じた。敵潜水艦がいるこの海域からの離脱のためだったが過度の避退も危険と判断し、6時51分基準針路に戻り乙字運動を再開する。ところがその直後の6時57分、今度は重巡洋艦 摩耶 に潜水艦デイスの放った魚雷4本が命中する。. 馬公在泊時に南西方面部隊からの要請を受けて志摩艦隊と分離別行動をとっていた第21駆逐隊( 若葉 ・ 初春 ・ 初霜 、隊司令: 石井汞 大佐)は任務を終えると23日にマニラを出港、ミンダナオ島付近での志摩艦隊との合流を目指していた。しかし24日早朝に敵編隊約20機に捕捉され、7時55分より空襲を受ける。8時13分、司令駆逐艦若葉が直撃弾1、至近弾1を受け航行不能。8時45分に沈没した。石井、艦長の 二ノ方兼文 少佐以下生存者は救助されるが乗員30名が戦死し74名が負傷した。11時52分にも空襲を受け初霜が1発被弾する [] 。健全な艦が初春1隻しかなくなったことを受け、石井司令はマニラに回航して修理することを決意し北上、艦隊との合流を断念した。.

というものであり、第十六師団の敵情偵察の報告もその疑念を深くさせていた [66] 。現地の第三十五軍が襲来するアメリカ攻略部隊を発見できなかったことに関しては、レイテ湾は南北km、東西60kmにもおよぶ大湾であり、悪天候下では偵察機が広大な湾内をくまなく捜索するのは困難なことと、沿岸の監視所も同様であったことも要因である。. 後述のように栗田・西村両艦隊の攻撃は計画とは違って連携を欠いたものとなったが、その原因は栗田艦隊側の遅延や西村艦隊側の繰上げだけでなく、両艦隊の通信手段が十分でなかったことにもよっている。これは、西村艦隊の現在位置を知らせる電文に対し栗田艦隊が時間調整の指示を出さなかったこと、西村艦隊が連合艦隊司令長官からの全軍突撃の電信を傍受したことに加え、栗田艦隊の反転電文が西村艦隊に届いていなかったことにより、西村中将は栗田艦隊の進撃が空襲で多少遅れたとしても時間的に大きな遅れは出ていないと判断した可能性はある。西村艦隊のいた海域はアメリカ軍の制海・制空権下にあり、アメリカ魚雷艇の襲撃がいつ始まるか分からない状況下で、空襲が始まる夜明けまでのんびりと後続の味方艦隊の到着を待っている余裕など無かった。これにより志摩艦隊とは最期まで共同行動はおろか、共戦的な行動すらとることはなかった。25日午前1時、西村艦隊は「スリガオ海峡南口通過レイテ湾に突入、魚雷艇数隻を見たる外敵情不明」と発信し、栗田艦隊も午前2時に受信した [] 。.

詳細は「 捷号作戦 」を参照. 東亜放送 日の丸アワー 東京ローズ 大本営発表 パープル暗号 海軍暗号書D.

7257274733755757 [] 7548 []. 875 [] 78 []. Robert Carney. []. 2425381 [] 382 - 4.

戦史に見る意思決定プロセス(4)レイテ沖海戦・栗田健男

総計隻(戦闘艦艇隻、輸送船隻、特務艦船隻) [] 。. 案内 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード ウィキメディア・コモンズ. 旧制水戸中学校(現 茨城県立水戸第一高等学校 )を経て、 年 7月18日 、海軍兵学校を38期生として名中28番の成績で卒業 [2] 。少尉候補生として練習航海に出発。年12月、海軍少尉に任官し、「 龍田 通報艦 」に乗組。年12月、水雷学校普通科学生を拝命。年5月、砲術学校普通科学生を拝命。12月、海軍中尉に昇進し、戦艦「薩摩」に乗組。年3月、駆逐艦「榊」の分隊士に任命。年6月、巡洋艦「磐手」に乗組。年10月、佐世保海兵団分隊長に任命。12月、海軍大尉に昇進し、巡洋艦「利根」分隊長の任命。 年 12月、海軍大学校乙種学生を拝命。 年 4月、水雷学校高等科学生を拝命。12月、駆逐艦「峯風」水雷長に任命。年6月、第五戦隊参謀に任命。年3月、駆逐艦「矢風」水雷長に任命。6月、駆逐艦「羽風」水雷長に任命。12月、 時雨 初代神風型駆逐艦 艦長に任命。年8月、 追風 初代神風型駆逐艦 艦長に任命。9月、第四戦隊参謀に任命。11月、水雷学校教官に任命。年12月、海軍少佐に昇進。年12月、第二号駆逐艦長。年12月、駆逐艦「萩」艦長に任命。年12月、駆逐艦「浜風」艦長に任命。年12月、海軍中佐に昇進し、駆逐艦「浦風」艦長に任命。年12月、水雷学校教官に任命。年3月、呉工廠魚雷実験部員に任命。年11月、第25駆逐隊司令に任命。年5月、第10駆逐隊司令に任命。 年 12月1日 、海軍大佐に昇進し、第十二駆逐隊司令に任命。 年 11月15日 、 阿武隈 艦長 に任命。 年 11月15日、水雷学校教頭に任命。 年 12月1日、 金剛 艦長に任命。当時、大変な無作法をした初級士官を怒鳴りつけながらも赦し、この士官は栗田のためなら「命は要らん」と泣きながら語った [3] 。 年 11月15日、少将に昇進し、第一水雷戦隊司令官に任命。 年 11月25日 、第四水雷戦隊司令官に任命。.

まず、水上艦艇の能力を活用した作戦であるにもかかわらず、その中核である 大和型戦艦 については日本海軍内でも作戦を計画・指揮する部署にて正確な情報が共有されていなかった。長官の栗田中将は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」とアメリカ軍の調査団に陳述している [] 。第二艦隊の砲術参謀も同様で、艦隊の参謀団の全員或いは大半が、指揮下の戦艦の攻撃能力を知らなかった可能性が高い。戦後の一時期、大和型戦艦の攻防力は極端なまでに高く評価される傾向があり、史料批判に熱心だった大岡昇平も「「大和」の超大口径主砲がものをいって、オルデンドルフの旧式戦艦群6隻をアウトレインジ出来たかもしれない」と指摘し [] 、佐藤和正もこの可能性には言及している [] 。しかし、上記の証言は後世指摘される46センチ砲弾の威力、46センチ砲対応防禦といった要素を計算に入れて作戦を行うことが、艦隊司令官には不可能であることを示している。. しかし既に鬼怒は沈没しておりその後第十六戦隊が発した状況報告文も不達だったため不知火の出撃は空振りに終わり同艦は帰途についた。しかし翌27日朝、アメリカ空母艦載機に不知火は発見され攻撃を受け沈没。18駆逐隊司令井上良雄大佐・荒悌三郎不知火艦長以下全員が戦死した。なお付近には第2駆逐隊所属の 早霜 が座礁しており、乗員がその一部始終を目撃している。.

第1遊撃部隊 捷号作戦 菲島沖海戦を含む 1 pp.

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[]. 6 25 USS Sterlet, SS 27. 282130 - 1,40 - - []. [86] 2012. 61072184511115 [] 1138.

第一遊撃部隊 第二部隊【鈴木艦隊】

戦争 : 太平洋戦争. 栗田艦隊のレイテ湾突入意思の喪失が何時起こったかは諸説ある。一般的に伝えられる話としては、最初に反転を進言したのは作戦参謀である大谷藤之助中佐であり、それを受けて先任参謀の山本祐二大佐が栗田中将に伝えた。栗田中将は自分ひとりで決定したと伊藤正徳に述べたが 詳しくは後述 [] 、小柳少将は参謀会議を開いて全員一致で決定したと戦略爆撃調査団に陳述している [] (一般的な決定経過は原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』など多くの書籍に記されている。その議論の詳細は下記)。. 連合艦隊では連合艦隊司令長官の豊田副武大将が前線視察で台湾の高雄におり、参謀長の 草鹿龍之介 中将が通信情報や現地部隊の索敵情報などから判断してハルゼー大将の部隊が沖縄寄り、 マーク・ミッチャー 中将の部隊が比島寄りにそれぞれ行動し、ダグラス・マッカーサー大将の攻略部隊も付近に存在していると判断した [67] 。実際には、比島寄りの部隊とされたミッチャーの部隊はキンゲイト中将貴下の第七艦隊であり、18隻の護衛空母を機動部隊と見誤った。ミッチャーはハルゼー機動部隊の第38高速空母部隊指揮官でハルゼー大将の指揮下にいた。豊田大将はただちに「発GF軍令作特第14号 捷一号作戦警戒」を発令し、日吉の連合艦隊司令部でも26分後に同様に発令した [68] 。.

アメリカ軍は上記の南部フィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して第38任務部隊の残りの3群は一旦後退した。10月7日マリアナ諸島の西で合流した第38任務部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に 南西諸島 を空襲、12日から14日には 台湾 を空襲。一連の戦闘を「フォルモサの戦い」としている [59] 。日本軍の基地航空部隊はこれに応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、日本の航空戦力が消耗しただけに終わった。そして、この時の戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。第38任務部隊が陽動を行っている間の10月11日から15日にかけて、ニューギニアのホーランディアとマヌス島に集結していた上陸部隊は続々と出撃していた。.

850658353915930937 9 []. 5354 [] []. [] 5km [] [] 402. []. [] 1939 [] .

2.「艦隊これくしょん~艦これ~」において

東亜放送 日の丸アワー 東京ローズ 大本営発表 パープル暗号 海軍暗号書D. 連合艦隊では連合艦隊司令長官の豊田副武大将が前線視察で台湾の高雄におり、参謀長の 草鹿龍之介 中将が通信情報や現地部隊の索敵情報などから判断してハルゼー大将の部隊が沖縄寄り、 マーク・ミッチャー 中将の部隊が比島寄りにそれぞれ行動し、ダグラス・マッカーサー大将の攻略部隊も付近に存在していると判断した [67] 。実際には、比島寄りの部隊とされたミッチャーの部隊はキンゲイト中将貴下の第七艦隊であり、18隻の護衛空母を機動部隊と見誤った。ミッチャーはハルゼー機動部隊の第38高速空母部隊指揮官でハルゼー大将の指揮下にいた。豊田大将はただちに「発GF軍令作特第14号 捷一号作戦警戒」を発令し、日吉の連合艦隊司令部でも26分後に同様に発令した [68] 。.

航空母艦4 戦艦9 重巡洋艦13 軽巡洋艦6他 駆逐艦34 航空機約機. 魚雷にはさまれ主戦場から離れてしまった大和は8時4分に敵への進撃を再開、8時14分に観測機(今泉馨中尉機)を射出する。同機はアメリカ艦隊に接近し空母1隻が炎上中であることを報告している。同機はその後アメリカ軍機の迎撃にあいながらも幾度が状況報告をし、9時30分に蝕敵を諦めサンホセ基地に帰投している [] 。8時10分、空母(恐らくカリニン・ベイ)に砲撃をしていた榛名は左艦首方向に全く異なるアメリカ空母部隊を視認する。これは第3集団の南東で行動していた第2集団「タフィ2」であった。榛名艦長 重永主計 少将はこれを砲撃すべく接近するが損傷して低速の榛名には追いつくことができずまもなく振り切られた。8時30分頃榛名は再び第3集団の追撃を開始した [] 。金剛はガンビア・ベイへの砲撃中の8時40分、榛名が見つけた第2集団を発見、艦載機を発艦させている状況を視認する。.

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  • しかし、「遠距離射撃で回避に徹する艦艇」に対する砲撃の命中率が悪いことは、光学測距による射撃の場合も同じである。これは日本海軍側も認めている事実であり、実際戦艦比叡と霧島、重巡洋艦利根と筑摩がアメリカの旧型駆逐艦 エドサル 単艦に昼間砲撃をおこなったが、主砲弾と副砲弾をあわせて1,発を消費して命中したのは一発のみ(命中率0.
  • 一方、水雷戦の要である駆逐艦27隻については、スリガオ海峡海戦前の時点で5インチ砲弾は定数の20パーセントしかなかったとされる [] 。一方魚雷は従来撃ち尽くしたと考えられてきた(例えば『レイテ戦記 上巻』Pに「確かに駆逐艦は魚雷を使い尽くしていた」とある [] 。しかし、アメリカ軍の戦闘報告書からは搭載魚雷をすべて発射したのは3隻のみ、1本を残して発射した艦を含めても6隻のみが「ほぼ消耗した状態」であり、その他の艦は各艦当たり5 - 10本の魚雷を残していたという [] 。.
  • アメリカ艦載機の第一遊撃部隊への空襲が始まる少し前、第七戦隊重巡洋艦部隊各艦から計6機の水上偵察機が発進した [] 。鈴谷1号機のみ索敵に向い、残る機はサンホセ基地に退避した。.

812251315 []. 430. 77 [51] 78 [52] [53]. []. 875 [] 78 []. 256303 []. 2 2 9131853 [] 19155,m120152059 [] [] 81721.

第一遊撃部隊 第一部隊【栗田艦隊】

被雷落伍した熊野に替わり 鈴谷 が先頭に立った。しかし同艦もまもなく敵機の襲撃に遭い左舷後部に至近弾を受ける。これにより左舷の推進軸の1つが使用不能となり速力が23ノットに低下、鈴谷も隊列から落伍した [] 。7時32分、第七戦隊司令の 白石萬隆 少将は3番艦 筑摩 艦長の 則満宰時 大佐に指揮の一時代行を指示、また同司令は鈴谷の損傷に気づかず熊野からの旗艦移乗を考え接近を命じる。白石司令が鈴谷の損傷に気づいたときは既に筑摩、利根ともに大分先方に進撃しており、呼び戻すわけにもいかなかった。そのため旗艦を鈴谷に移乗した後、戦隊を追尾した [] 。. Hornfischer, "The Last Stand of the Tin Can Sailors", An unprecedented account of the U.

この日も日本側の航空攻撃は散発的であり、地上の第十六師団は苦戦を強いられていた。師団長である牧野中将は第二線陣地への後退を命じたが、アメリカ軍の猛追を受けて師団司令部のあるダガミ付近まで押し上げられてしまった。師団が掌握している兵力は約三千にまで損耗し、火砲も食糧も大部を失い、将校も多くが戦死した [] 。それでも一部の取り残された兵力がブラウエン北飛行場地区などで抵抗を続けており、カトモン山 沿岸から約5km でも日本軍の残余が抵抗を続けていた [] 。上陸地点は日米両軍が入り乱れて戦い、それに伴う砲爆煙に覆われている状況だった [] 。また前日よりブラウエン地区に侵攻した戦車およそ40両を先頭とするアメリカ軍2個大隊は同地の日本軍を駆逐しドラッグ方面の制圧を完了した。.

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